沿 革

学校沿革史

仰高小学校は、豊島区で1番歴史のある学校で、豊島区の誕生よりも前からあった学校です。令和3年度に創立145周年を迎えました。

仰高小学校のできたころ

仰高小学校は、明治9年に文京区本駒込2丁目の長源寺というお寺の中に開校しました。 「仰高」という校名は、中国の「論語」という古い本に「孔子という立派な先生の教えは、仰ぎ見ればいよいよ高い」と書かれているところから名付けられました。 児童数は70名ほどで、みな、着物を着て通ったそうです。 東京の町にガス灯がつき、はじめて、あんパンができたのがこのころです。

それからの仰高小学校

明治13年仰高小学校は、通う子どもがいなくなり、休校になってしまいました。 明治17年場所を変えて、文京区本駒込5丁目の高木さんという名主の家を借りて、「駒込小学校」と名前を変えて再出発しました。 このころには、はじめて家に電灯がつき、めずらしがられました。はじめて東京でチョコレートが売られたのもこのころです。 明治24年巣鴨1丁目に6教室の新校舎を建てたのを機会に、校名をもとの仰高にもどし、「巣鴨町立仰高尋常・高等小学校」となりました。 明治24年には、高岩寺が、上野から今の場所に移ってきました。 それから、中山道(今の地蔵通り)沿いに、お店ができてきました。明治36年には、山手線巣鴨駅ができました。ますます町が発展してきました。 明治39年学校がせまくなったので、巣鴨2丁目(今の戸田講堂の場所)に10教室と、雨天体操場をたててひっこしました。 このころ、今の仰高小のあたりは松林で、草もしげり、虫がたくさんいました。キツネもすんでいたそうです。

関東大震災のころ

大正12年9月1日おひるごろおそろしい関東大震災が起きて東京の町は大火事になりました。  このとき、仰高小学校は新しい校舎を建てているとちゅうで、早帰りだったので、難をのがれました。 児童の数が2000人を越えるほどになり、教室が足りなくなったので、午前組と午後組の2部授業をしていたそうです。 翌年の大正13年木造2階建ての校舎が完成。創立50周年のお祝いをしました。

そかいのころ

昭和12年中国との間に始めた戦争がしだいに広がり、昭和16年4月学校の名前は「東京市仰高国民学校」と変わりました。 この年の12月8日には、日本はアメリカなどを相手に太平洋戦争をはじめました。 東京にもアメリカの飛行機が飛んでくるようになったので、学童集団疎開(がくどうしゅうだんそかい)といって東京の小学生はおとうさんやおかあさんとはなれて、地方で暮らすことになりました。 仰高の子どもたちも、昭和19年8月に、長野県上田市に300人が疎開しました。 昭和20年4月13日の空襲(くうしゅう)で、仰高小学校のあたりも、焼け野原になりました。校舎も燃えてしまいました。 昭和21年11月に疎開(そかい)していた子どもたちが帰ってきましたが、校舎はありません。三菱の寮を借りて、勉強が始められました。 昭和22年6教室ができました。その後も毎年少しずつ教室がつくられましたが、子どもの数が多くて足りません。 2部授業が行われました。 この年、「豊島区立仰高小学校」という、今と同じ名前になりました。

今の場所に

昭和48年2月、今の場所に新しい校舎、体育館、プールが建ちました。 これが、今わたしたちが使っている校舎です。

仰高小のある街

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