最新更新日:2024/05/20
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リスク(risk)

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 最近、この言葉をよく見たり聞いたりします。新型コロナウイルスの影響もあるのかもしれません。「感染のリスク」「経済活動へのリスク」「リスクのある仕事」と様々に言葉が飛び交うのですが、具体的にはどういう日本語訳が一番しっくりくるのでしょうか。
 辞書で調べると「リスク=危険、危機」とあります。「なるほど、感染する危険があるのか」とか「経済活動が危機に瀕しているのか」はたまた「危険を伴う仕事なのか」といった具合に訳せばなんとなく意味は通じます。しかし「危険」は「Danger(デインジャー)」「Hazard(ハザード)」と言う言葉が、「危機」には「Crisis(クライシス)」と言う言葉が当てはまるようです。別の辞書には、「リスクとは、何か悪いことが起こる可能性」とも載っていますので、最も適した日本語訳は「危険性」と言えるでしょうか。実はこの「危険」と「危険性」は似て非なるもの。ここには明確な違いがあります。
 「危険性」というのは、事前に感じるものであって、事後的に感じるものではありません。一方で「危険」は、必ずしも事前に感じる必要はありません。突如として目の前に迫る状況に危険を感じることはあります。事前に想定できずに突如として訪れる危険を目前にして「危険性」を感じることは少ないでしょう。つまり「危険」は「確かなこと」であり、「危険性」は起こるかもしれないという「不確実性」を含んでいるということなのです。そう考えると最初の例で言えば、「感染のリスクがある」とは街中に繰り出せば感染する危険性があるわけで、それが分かっていれば、街へ出かけないという回避をすることができます。「リスクのある仕事」といえば、大けがをする可能性もある重機を使っての仕事かもしれませんが、安全に配慮して危機を回避することができるのですね。しかしこのリスク、危険性をはらんでいるとはいえ実行してしまうのはなぜでしょうか。それは、その裏側に効能とも言うべき達成感や充実感あるいはメリットといったものが隠れているからなのでしょう。街に繰り出せば楽しいことがある、重機を使って仕事をすれば大量に仕事をこなし収入が多くなるといった具合です。「リスクを冒す(おかす)」とは読んで字のごとく一種の冒険なのかもしれませんね。
 緊急事態宣言が解除されました。リスクを冒すにはまだちょっと抵抗があるのですが・・・。

                      学校長  川合一紀

いざ!Disneylandへ

 昨日3月14日15日で3年生の修学旅行に行ってきました。今年度は、昨年の6月に京都奈良への修学旅行を予定していましたが、新型コロナウイルスの関係で中止となり、この時期に代替旅行を検討していました。感染予防対策をきちんと行った上で実施できる案として東京ディズニーランドを選択したのです。1日目は、ミッキーやミニィーと一緒にテーブルマナーを学ぶ豪華フランス料理をいただきました。2日目には、東京ディズニーランドへ。
 東京ディズニーランドは、感染予防対策として入場制限や時間制限を行っていました。そのため、何と!待ち時間なしでアトラクションを体験できたのです。生徒達もどんどん体験できるので、まさかの「遊び疲れ」を感じたようです。良い思い出となりました。これもひとえに、ご家族の皆さんや地域の皆さんのご理解とご協力があってこそです。
 卒業式まであと3日。次への世界に胸を膨らませて、楽しい思い出をたくさんもって行って欲しいと願っています。ありがとうございました。

                     学校長  川合 一紀

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思い出すということは・・・

 昨年1月にスタートした大河ドラマ「麒麟がくる」。この総集編が先日放送されていました。このドラマは戦国武将の『明智光秀』目線で描かれた興味深いものでした。
 ところでその中に登場する明智光秀の三女『明智珠子』(あけちたまこ)が正室として迎え入れられた『細川忠興』(ほそかわただおき)の注目する言葉があり、私は感銘を受けました。「思い出すという言葉は、日々忘れているから使う言葉。毎日心に留めていたならば、思い出すということはないのだ」というもの。う〜ん、意味が深いですねえ。この言葉を発したときの背景はさておき、この一節の意味だけを捉えるならば、とても当たり前のことを言っていますよね。でも人は「忘れる動物」といわれるように、記憶を整理するためにも結構な量の物事を忘れています。しかし常に意識している重要なことや忘れられない物事は、決して風化することなく心のどこかに挟まっているものですね。私もだんだん自分の記憶力に自信がなくなってきまして「あっ!思い出した!」なんてことは日常茶飯事です。覚えておかなければならないことだって忘れることがあるのに・・・。
 「毎日毎日繰り返し考えていることは必ず現実なる」とも言われます。良くも悪くも意識の延長上に、自分の行動が伴っていくからなんでしょうかねえ。深く考えさせられる言葉でした。

                         学校長 川合一紀
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喜びと幸せ

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 皆さんは、どんなときに「喜び」を感じますか。例えば、誕生日にプレゼントをもらった、欲しかったスマホを買ってもらった、会いたいと思っていた芸能人に出会えた、大会で優勝したなど・・・。思い出せばいくつもあることでしょう。
 では、皆さんはどんなときに「幸せ」を感じますか。ちょっと考えてしまいますよね。喜びを感じるというのは、もちろん何かをもらったり、結果を出したりしたときには感じるかもしれませんが、必ずしも皆一緒に幸せを感じるかどうかは分かりませんね。
 この喜びと幸せを考えるとき、喜びは、大抵、外的要因によるものが多いと思います。自分の外にある何かを受け取ったり見たり感じたりしたときです。でも、幸せというのは内面的なものではないでしょうか。お金をいっぱい稼いで手にした喜びを誰もが幸せと感じるかどうかは、人それぞれです。富士山に登って初日の出を見たときに喜びを感じるけれど、幸せだと受け止める人が全員とは限りません。幸せとは、その人自身の価値観が大きく関係しています。
 できることなら、どんな小さなことにも幸せを感じられる価値観をもちたいと思うのです。今日はいくつ幸せを感じられるでしょうか・・・。

NASA

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 アメリカの火星探査車「Perseverance」(パーサビィアランス )が、日本時間の2月19日早朝に火星への着陸に成功しました。Perseveranceは「火星に生物が存在した痕跡」を探すために打ち上げられたNASAの火星探査プログラムの9代目後継機。最初に火星に着陸したNASAの探査機はバイキング1号。1976年のことでした。
 当時は、送られてきた映像に「火星人が映っている」なんていう話題がもてはやされたのですが、「あったなぁ」と記憶している方もおられるでしょうか。今回Perseveranceは、火星の北半球に位置している直径45kmの「ジェゼロ・クレーター」に着陸しました。そこは約35億年以上前に水が流入し湖だったと考えられているからです。地球に生命が誕生したのは約40億年前。同時期の火星は、地球と同じように暖かく、水も豊富に存在していた可能性が高いことが明らかになっています。というのも火星探査機8代目の「キュリオシティ」はこれまでの探査によって、実際に水が流れていた痕跡を発見、「生命が存在できた環境」がかつての火星にあった可能性を見出しているようなのです。Perseveranceは日本語にすると、「忍耐」という意味があるそうです。Perseveranceが打ち上げられたのは、まさに地球人が新型コロナウイルスに脅かされている昨年の夏ですから、「火星に移り住めるのか?」なんていう新たな世界へ光明を見出すきっかけになることを期待したいですね。
 ところで、火星には新型コロナウイルスはいないでしょうかねえ?

                     学校長  川合 一紀

余震って?

 一昨日(2月13日)の晩に大きな地震がありましたね。突然の突き上げるような揺れに驚き、私は布団から飛び起きたのですが、その後にだんだん強くなってきて、10年前の東日本大震災の時の地震を想起させられました。気象庁の発表によると、震源は福島県沖でM7.3、なんと東日本大震災時の地震(2011年東北地方太平洋沖地震)の余震だというではありませんか。「10年も経っているのに・・・」と思うものの、地球規模の時間の流れに改めて驚いたわけです。
 ところで、この余震という言葉、気象庁は使い方を改めたのですがご存じでしたか。例えば、一昨日の地震で言えば、福島県相馬市あたりの震度6強の地震が「本震」、そしてその数日前にその前兆となるような地震が観測されていれば「前震」と呼びます。そして「本震」の後にやってくる地震を「余震」と呼ぶのです。しかしこの使い方が、みなさんへの注意喚起には不適切だったと気象庁は反省し、大きな地震が発生した際には、その後1週間程度で発生する可能性のある地震については、あえて「余震」と呼ばなくなったのです。この余震と聞くと、「本震よりも小さい程度の地震だろうから一応注意はしておくけど・・・」と勘違いされて、避難が遅れたり備えが十分でなかったりと被害が大きくなる恐れを懸念したのです。そのきっかけとなった地震が2016年4月14日に発生した熊本県地方を中心としたM6.5の地震でした。この時までは気象庁も「今後この地震の余震に注意してください」と言っていました。ところが、その約28時間後の4月16日には、ほぼ同じ震源でM7.3の震度7を観測する本震よりも大きい規模の余震が発生してしまったのです。その後の反省から気象庁では「最初の地震と同程度の地震に注意してください」というようになりました。今回もそうです。様々なニュース番組では「余震」という言葉も聞かれますが、気象庁は注意して使い分けています。それにしてもコロナ禍での地震は一層心配ですよね。被災された地域の方々には、心よりお見舞い申し上げます。我々も「備えあれば憂いなし」といきたいものです。

                    学校長  川合 一紀
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良い運と縁

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 今週から、私立高校の一般入学試験が集中して始まります。3年生にとっては重要な一週間です。心から応援しています。
 さて、皆さんはヘレン・ケラーという人物を知っていることと思います。中学校の道徳の教科書にも出てきます。ご存じのとおり、聴覚と視覚を失い話すこともままならない「三重苦」を背負いながらも、サリヴァン先生との出会いから人間としての生きる意味に目覚め、87年の生涯を多くの人のために尽くしたといわれる人です。この方の言葉にこんなものがあります。「行く先々で出会う皆さんの思いやりのおかげで、物事がいつもうまく進んでいきます」と。幸せにはいろいろな形がありますが、素晴らしい人との出会いを通じて、自分のことを知り、才能を分かち合うことで周りの人に喜んでもらう。こんな形もいいのではないでしょうか。良い運と縁をもつことは、幸せな人生を送るための重要な鍵であるといえます。大好きな人と一緒にいることです、尊敬できる人と一緒に仕事をすることです、楽しい人をお客さんにすることです。
 人生は、誰と会って、何を感じ、どのように行動するかで変わってきます。良い運と縁を探していきたいものですね。3年生の皆さんにとっても、入学試験での良い学校との出会い、良い先生との出会い、良い友人との出会いは一生ものになるかもしれませんね。

                   学校長  川合 一紀

懐石とは

 心身ともに健康を維持していくためには、食事は重要な意味をもっています。
近年では、過剰なダイエットからバランスの崩れた食事制限など問題は多くあるようです。表題の懐石から懐石料理が思い浮かびますが、有名な料亭で出される豪華かつ贅沢な料理をイメージしますね。しかしこの言葉の本来は、お坊さんたちの生活から来ています。お坊さんは1日1食を目安に質素な食生活をされています。精進料理などと言われますよね。しかしお坊さんだって人間ですからおなかがすきます。そんな時は、温めた石を懐(ふところ)に入れて飢えをしのいでいたのだそうです。この石のことを懐に入れる石ということで「懐石」といいます。懐石料理は精進料理という言葉の基にあり、いかに質素でありながらバランス良く栄養を取るかにあったようですね。
 昨今は栄養バランスが数グラム単位で明確なレシピもありますから、健康維持はやろうと思えばできるのですが、意志が弱いというところが問題でしょうか。懐の石よりも心の意思がポイントですかね。

                    学校長  川合 一紀
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人も猿も・・・

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 アメリカの心理学者ハリー・ハーロウ氏の興味深い実験があります。布でできた代理母と針金でできた代理母を用意して猿の赤ちゃんを育てたというものです。布でできた代理母は暖めてあり温もりがありますがミルクを飲むことはできません。一方針金でできた代理母は温もりはありませんが哺乳瓶が取り付けてあります。すると赤ちゃん猿はお腹がすいたときだけ針金代理母からミルクを飲み、すぐに布製の代理母に寄り抱きつきます。その姿はとても不安そうです。そして布製の代理母を取り除くと、泣き叫び、決して針金代理母に近づこうとはしません。この結果から、たとえ布製の代理母であっても、温もりを感じる存在と触れあうことで一定の心理的安定感を得て、外界に向かう探究心や好奇心が芽生えるというのです。

 これは人間の子どもにも必要不可欠な条件であると言われています。ハーロウ氏の実験は、子どもには母親の温もりが重要だと言っているように感じますが、当のハーロウ氏はそうは言っていないのです。ハーロウ氏は、これらの実験結果を踏まえ、なんと「母性なんて必要ない」というとんでもない発表をします。布でも何でも温かい接触さえあれば、子どもは育つので母親はいなくても良いという論理です。
 しかしこの後、赤ちゃん猿は残念ながら正常に育たなかったという結果がでました。代理母で育った猿は、恐怖感が異常に強く攻撃的で異常行動を取るようになってしまいます。社会性も育たないために集団にも馴染めず、いじめられ最終的には集団を追い出されてしまう。大人になっても子育てもできずに自分の指を噛んだり腕を噛んだりの自傷行動もあるようです。結局、ハーロウ氏の発表した「母性なんて不要」と言う結論は事実に反しており、単に温もりがあるだけの代理母では、対象性と社会性を欠如してしまうことが明らかになりました。

 この結果を皆さんはどう受け止めますか。勿論単純に人間の子どもにそっくり当てはめられるとは言いません。しかし今の世の中の風潮を見ていると、あながち的外れとは言い難いところもあると思いませんか。衣食住は事足りていても、肌の温もりがない関係では情緒や感情が育たないのですね。そしてその情緒や感情こそが、人間の尊厳であり、人工知能の時代を迎えうつ、人間としての生き残る術ではないのでしょうか。
う〜ん、考えさせられますねぇ。

                    学校長  川合 一紀

365.2422日

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 毎日、コロナウイルスの話題ばかりで気が滅入ってしまいますよね。誰か早くコロナウイルスを退治してほしいものだと思うのですが、そんなときには「鬼は〜そと!!」と言って豆まきでもしましょうか。福を呼び込む行事として豆まきをするのが節分の風習ですね。ところで今年の節分は2月2日です、お間違えの無いように。「あれ?2月3日じゃないの?」と思われた方は無理もありません。去年までずっと2月3日が節分だったのですから。なぜ変わるのかというと、今年は2月3日が立春だから、その前の日が節分というわけなのです。そもそも立春とは、二十四節気の一つで春の始まり。1年を春夏秋冬の4分割した上に、それぞれをさらに6つに分けたので24分割されているのです。「節分」というくらいですから立春の前の日、立夏の前の日、立秋の前の日、立冬の前の日はぜんぶ節分。でも春は1年の始まりという大事な感覚が根付いていることから、今も豆まきのような節分行事が残っているのですね。
 ところで、では何で今年は立春が2月3日なのか、ですね。ここからは少し算数の問題になります。実は1年は365日より少し長い365.2422日。「う〜ん、小数点は苦手なんだよなあ」という声にお答えすると365日と5時間48分46秒ほど。つまり約6時間くらい長いのです。これが4年続くと約6時間×4=約24時間(1日)分増えてしまうことになるのです。というわけで4年に一度、1年を366日にして帳尻を合わせているわけです。これを閏年といますね。でもよく考えてみますと、約6時間で計算しましたが、本当は5時間48分46秒くらいですから、11分14秒ほどごまかしちゃいました。これがちりも積もって数十年単位でまたまたズレちゃうのですね。ですから今年の節分が2月2日になるのは124年ぶり。今後は毎年ちょっとずつ変わるのでお気をつけください。
 ちなみに、閏年には約束事がありまして、100で割り切れる西暦の年は閏年にしない、でも400で割り切れる西暦の年は閏年にするなんていう複雑な計算があるんだとか・・・。めんどくさい算数にお付き合いいただきました。

                      学校長  川合 一紀

明けましておめでとうございます。

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 2021年の幕開けです。今年は例年になく静かに過ごしたという方も多いでしょう。年末から年始にかけては、コロナウイルスの猛威はとどまることを知らず、一層拡大に拍車がかかっているように見えます。国は緊急事態宣言を再発令しましたね。これで新型コロナ感染症は収束していくのでしょうか。
 あまり表だって話題にされていないようですが、法律上、新型コロナウイルス感染症は「指定感染症」として位置づけられ、病院の対応もかなり慎重に扱うべき2類感染症相当となっています。2類感染症というのは、結核やSARS、MERSといった感染症が含まれていて8分類の上から2番目。対応は入院の勧告・措置に始まり保健所への連絡など細かな決まりがあるようです。ところが新型コロナウイルス感染症の場合は、これに加えて無症状者への対応や類似症患者への対策までも決められているので、病院関係者の間では、段階を下げてくれないと医療現場が崩壊するといった悲鳴が出ているようなのです。すでに保健所の方々は徹夜で処理をされています。今、じわじわと問題になってきている「早急に入院・手術をしなくてはならない病気の人」の受け入れ枠が無くなってきているというわけです。
 厚生労働省も昨年の8月には段階変更を検討すると言ったわけですが、やはり社会情勢や治療薬の有無を見据えて、結局はこの「指定感染症」扱いを1年延長するとしました。う〜ん、どうしたらより良いのでしょうか。一刻も早く実効性のある対策を期待したいものです。もちろん、コロナウイルスを軽視するわけにはいかないので、感染者を減らす努力を我々一人一人がしっかりやっていくのは当然なのですが・・・。
 他方で、今年で10年目を迎えるのは、東日本大震災の傷跡です。決して忘れてはならない震災の教訓があるのです。中学生の皆さんは、当時、3〜5歳ほどだったでしょうから記憶のない人もいるでしょうが、親戚の方や家族が被災した人もいるかもしれません。「天災は忘れたころにやってくる」とは、科学者である寺田寅彦の言葉のようです。さらに言えば、昨年の台風発生個数は23個とやや少なめですが想定内、しかし日本本土上陸は一つもないという異例の状況でした。そして昨年末あたりから「ドカ雪」の被害が多発しており、今週末も大雪に警戒という困った状況ですね。どうも自然災害を短いスパンで捉えると我々にあえて苦難を強いているように見えるのは私だけでしょうか。
 今年は、何とか楽しい話題で「呟き」を飾りたいものです。

本年もよろしくお願いいたします。

                     学校長  川合 一紀

二学期が無事に終了しました

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 本日、二学期の終業式を迎え、生徒には次のようなお話をしました。

(講話の主な内容)
ある日の新聞に、こんな記事がありました。クリスマスを控え、サンタさんにお願い事をするため手紙を書いて投函するというアメリカ郵政公社のプロジェクト「オペレーション・サンタ」が話題です。この取り組みにこんな手紙を書いた少女がいました。
「私は、クリスマスには何もいりません。でも、もし願い事を叶えてくれるなら、新型コロナを治す方法を見つけて、世界を救ってください」と。
 これほどまでに今年は、新型コロナウイルスに翻弄された年でした。来年は良い年になるようにと願いながらも、今できることは何かを考えて冬休みを過ごし、新学期を迎えてほしいと思います。そこで一つ、ヨーロッパの寓話を皆さんに紹介します。有名なお話です。

『昔、ある貧しい村の学校に赴任した先生が定年を迎えて故郷に帰ることとなりました。村人たちはお世話になった先生に何か贈り物をしたいと考えましたが、お金を出して贈り物を買う余裕はありません。そこで村の名産である葡萄酒(ワイン)を贈ろうと決めました。ワインはそれぞれの家庭で独自に作っています。広場には大きな樽が置かれました。そこに村人は少しずつワインを持ち寄っては注ぎ入れていきました。多くの村人が注ぎ入れたので樽はいっぱいになりました。思いがけない贈り物をもらった先生は、大喜びで故郷へ帰っていきました。故郷に帰って早速ワインを口にした途端、先生は驚愕の表情に変わりました。グラスに注がれた液体、それは、どう味わっても「水」だったのです。』
 
 この話から得る教訓は、自分一人くらいワインじゃなくて水を入れても分からないだろうという自己中心的な考えが、結局は多くの村人が皆そう思って行動したというところにあります。今、コロナウイルス感染症の拡大についても同じようなことが言えるのではないでしょうか。「自分一人くらい大丈夫だろう」との考えや行動が思いもかけず感染拡大に拍車をかけているという訳なのです。一人一人の意識が大切です。自分の行動に責任と勇気をもって毎日を過ごしてくださいね。例年のようにはいかなくとも、何か楽しみを見つけて過ごしてほしい年末年始です。年の初めには、小さくても確実に進められるであろう目標を決めるといいですね。そして毎年のように着実に前へと進みましょう。


 二学期は、怒濤のごとく過ぎ去りました。しかし大きな事故もなく無事に終えることができたのは、保護者や地域の皆様のおかげと感謝いたします。来年も一生懸命に取り組みます。何卒よろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。

                      学校長  川合 一紀

「397」という数字

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 皆さんは「397」と聞いて、何の数字のことだろうと想像されますか。ちょっと前のことならば、東京都におけるコロナウイルス感染者の数と言うようなところでしょうが、最近の感染拡大で桁が違いそうな勢いですよね。
 さて、実はこの数字は木星と土星の超大接近が397年ぶりという訳なんです。木星は約12年で太陽の周りを1周し、土星は約30年で1周します。太陽から見ると、この2つの惑星は約20年ごとに同じ方向に並びます。このように同じ方向に並ぶことを「会合」と呼び、「木星と土星の会合周期は約20年である」と表現します。約20年周期で起こる最接近ですが、毎回「超大接近」になるとは限りません。これは、木星と土星の公転軌道がわずかに傾いているため、太陽(地球)から軌道平面上で同じ方向に見えても軌道の上下方向にずれがあるからなのです。今回の場合は木星と土星の軌道が見かけ上交わる点の付近での接近なので「超大接近」となります。前回は約397年前の1623年7月頃でした。日本の歴史で言えば江戸時代、徳川家光が第3代将軍になった年です。次回は約60年後まで起こりません。非常に珍しい現象だということがわかるでしょう。
 最も接近するのは、12月21日(月)の頃です。夕方から宵の早い時間帯に南西の低空に見えています。月の右側に見えるのですが、この時期、肉眼では2つが重なって見えると思いますから木星しか見えないかもしれません。望遠鏡などで見ると2つ並んだ天体のうち、明るいほうが木星です。
 ちょっと気分を変えて、壮大な宇宙に思いを馳せてぜひご覧ください。

                    学校長  川合 一紀

水辺の馬

イギリスのことわざです。
「You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.」
馬を水辺に連れて行くことは簡単だが、馬が水を飲むかどうかは馬次第、と訳します。要するに、人は他人に対して機会を与えることはできるが、それを実行するかどうかは本人のやる気次第であるという意味です。お子さんがなかなか机に向かわないとか、問題集を買いそろえたり、夏期冬期講習などの塾への申し込みをしたりしたが一考に勉強に身が入らないといったお嘆きの声が聞こえます。本人のやる気が頭をもたげるまで待つしかないのでしょうか。「そんなこと言っていたら、いつまでもゲーム三昧ですよ」という声まで聞こえてきそうです。
 先ほどの水辺の馬を想像してみます。馬は喉が渇いていないから水を飲まないのですね。喉が渇いていたら、自分から水辺を探してでも飲みに行きますよ。人間に置き換えるなら、勉強の必要性を実感したり、勉強しなかったことによる失敗で大きな痛手を被ったりすることで気づくはずです。例えば、好きな彼女(彼氏)と同じ高校へ行きたいとか、あの学校の制服が着たいなど、大人からすれば些細な取るに足らない動機かもしれませんが、キッカケになることはあるのです。
 私も小学校の頃を思い出します。才女が私のところにやってきて「この問題教えてよ」と言うやいなや「ああ、川合君じゃ分からないか」と言って足早に他の子のところへ行ってしまった経験があります。あのときは悔しかったですねえ。俄然「勉強してやる!!」と力が湧いてきたことを覚えています。些細なキッカケです。でも今では、その才女に感謝しています。学ぶことの必要性と世界の広がりを教えてくれたのですから・・・。

                   学校長  川合 一紀

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時代とともに忘れ去られるもの

ある父娘の会話

父「やっぱり、急須(きゅうす)で淹れたお茶はおいしいねぇ」
妹「なになに?ジュースで淹れたお茶?」
姉「そういえば最近、お茶と果物の果汁が入った○○ティーってのあるね」
父「何言ってるんだ!急須だよ!お茶を入れる道具だよ!知らんのか!!」

 小学5年生の家庭科で「お茶の淹れ方」という学習があるので、知っている子も多いと思いますが、お茶はコンビニで買うものと思っている若者も少なくありません。淹れたてのお茶はきれいな緑色をしていてとてもおいしそうですね。しかし放っておくとすぐに黄ばんだり茶色くなったりして風味も落ちてしまいます。そもそもなぜ色が変わるかというと、お茶の緑色成分であるクロロフィルという物質が酸化して、最終的にフェオフィチンなどの物質に変わり茶色くなるのです。さらに渋みや旨味となる透明なカテキン類も酸化してテアフラビンなどの黄ばんだ物質に変わってしまいます。
 最近ではペットボトルのお茶で「緑色」を売りにしているものもありますね。これはより酸化しにくいように「ビタミンC」などを加えて酸化を防いでいるのです。時代が変わり、ご飯を薪で炊くとかダイヤル式電話のかけ方を知らないなんてことはどんどん増えています。
 時代が変わっても、残していきたいものって何でしょうか。様々な難題が降って湧いてくるような今の時代ですが、後世に伝えたいこともたくさんあるはずですね。皆さんはどう思いますか。

                      学校長  川合 一紀

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桃太郎はなぜこの三匹を仲間にしたのか

 桃太郎がなぜ、犬、猿、キジという一見バラバラの三者を仲間にしたのか。
そこには、桃太郎の明確な戦略がありそうです。おそらく桃太郎は、チームに多様性を取り入れ、ある種のケミストリー(化学変化)を起こそうとしたのではないでしょうか。最初は合わないこともあったかもしれません。でも心を開き、認め合うことができれば、個性の違いはお互いを高め合うきっかけになります。違うから視野が広がる。発見がある。成長できる。強くなれる。これからの多様性の時代に、私たちの学ぶべきことが、そこにはあるような気がします。【(JT)10月20日付毎日新聞記事より】

 面白い見方ですねえ。この記事を読んで私も周りを見回してみました。個性の違いが有効に働くためには、まずは自分がそれぞれの人を認め受け入れるという姿勢からでしょう。自分が変われば周りも変わります。そうすると本当に新たな発見があるのですね。その発見に気づくことも能力の一つです。

                      学校長  川合 一紀

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Stand by me

 スタンド・バイ・ミーといえば、1986年のアメリカ映画ですね。ティーンエイジャー手前の少年たちの友情物語を描いた作品です。スティーヴン・キングの小説が原作です。「Stand by me」を和訳すれば「私のそばにいてくれ」とか「私を支えて」という意味のようです。
 主人公のゴーディが「仲間との友情を感じた12歳の頃のような友達は、2度とできないだろう」と映画の最後に懐古するのですが、大人になっても自分を支えてくれるような友情や、そばにいてほしいと素直に言える関係はなかなか築くことが難しいのでしょうね。だからこそ「Stand by me」と叫びたくなるのではないでしょうか。
 ところでこのタイトル、最近の皆さんは「STAND BY ME ドラえもん2」でご存じの方も多いでしょう。1作目は2014年に公開され、のび太君としずかちゃんの結婚前夜までを描く作品。この続編がそれですね。やはりここでも「私を支えて」「私のそばにいてくれ」はドラえもんに向けて、しずかちゃんやのび太君に向けて、様々な相手に向けて素直にそう言えることに感動を呼ぶのでしょうか。皆さんは誰に「Stand by me」ですか?

                    学校長  川合 一紀
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時流把握力と実行力

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 巷では、再びコロナウイルス感染症が拡大しつつありますね。そんな中でも、日々は刻々と過ぎ去り、中学3年生にとっては受験に向けて本気で取り組む時期となり、1,2年生にとっても今週は期末考査をひかえ、次の学年に向けての中学生の本分を全うしているわけです。今の自分をしっかり見つめて現実を直視し、現在が最も大切であることを実感してほしいと思うのです。
 面白いデータがあります。ある優良企業のトップ(社長さん)に「上に立つ者として一番大事なことは何ですか」と質問しました。するとどうでしょう、約70%以上の社長さんが言ったのは「それは現実を上手に処理することですよ」というものでした。その時その時を上手に処理できない人は、いかに将来の素晴らしい夢を語っても、またどんなに天才的な才能を持ってしても、上には立てない人だというのです。時間は連続しているし、現実は厳しい。そんな中でも私たちは生きていかねばなりません。だからこそ、現在が最も重要であり、今の課題を迅速に適切に処理できる能力、それがトップには必用だと言っているようです。これを一言でいうならば表題の「時流把握力と実行力」です。簡単に言えば、今自分が立たされている状況を瞬時に把握し、一番いい方法を実行に移すと言うことですね。これも本校で言ってきている「自己指導能力」に近いものがあります。過去を変えることはできませんからいつまでもクヨクヨしていてはもったいないですね。そして何が起こるか分からない未来を思い悩んでいても楽しくありません。さあ、素晴らし未来を切り拓くためにも、生徒の皆さん!今を大切にし現在を適切に処理していきましょう。期待しています。

                     学校長  川合 一紀

本末転倒

 アメリカ大統領選挙では、ジョー・バイデン氏が当選確実となり勝利宣言をしましたね。その中では「分断では無く、一つのアメリカ合衆国として建て直す」と発言しています。それまでの選挙戦では、ドナルド・トランプ氏を相手に互いを批判し合う場面が多く見られたようで、本来注目すべき政策はどうであったか、ここが重要だったのですね。改めて大事なことは何だったかを思い出すわけです。
 ところで表題は、本末転倒(ほんまつてんとう)と読みますね。これは、物事の本質ではないことにこだわり、大事な部分をおろそかにしてしまうことを言います。
 哲学の用語に「人間学」というものがあります。人を愛する、尊敬する、我慢する、正直である、勤勉である、誠実であるなどの人として備えている徳性を養っていく学問のことをいうようです。一方で知識や技能を養う学問のことを「時務学」といいます。学校で習う数学や国語といった知識は時務学ということになりますね。もちろんこの時務学は生きていくためのスキルとしてとても大切なものですが、しっかりとした基礎があってこそ、知識や技能も活きてくるわけです。中国の古典には、人間学を「本学」そして時務学を「末学」と呼んでいて、まずは本学をしっかり身につけてこそ末学が枝葉を作っていくと言っています。
 我々は時として、実用的、実務的なちょっとした知識を身につけるとか、仕事に役立ちそうな学問をかじっただけで、一人前の仕事ができるような気分になります。しかし末学をもって本学とすることは、まさに本末転倒なのです。人間学を大切にしたいものです。

                      学校長  川合 一紀

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人材育成とは

 会社にお勤めの方々には、少々頭の痛い課題ですね。ましてや監督職や管理職的なお仕事に就かれていれば、会社の将来を左右しかねない大きな問題です。でもそれは人の持てる力を最大限に発揮させたいという「タテマエ」の裏に、会社の命令を高度にこなす社員、すなわち会社に財をもたらす「人財育成」と考えると、ちょっと首をかしげてしまいますね。財を生む材料というわけです。
 しかし、会社や学校という組織においては、人が財産という考え方は必要ではないでしょうか。その社員(先生)たちが生き生きと仕事をして、仕事をすることの喜びを感じて、はじめて会社や学校は発展するのです。けれども例えば、夜遅くまで将来を語り合ったり、共に涙や汗を流したりした部下(後輩)が退職や異動をしたとき、今まで通り親交を続けたり、その消息を気にかけたりする上司はどれほどいるのでしょうか。在職中は「財」への可能性を大いに期待しても、会社や学校をやめたら「材」にすらならないのが現実ですか・・・。悲しい限りです。
 人は存在そのものが「財」であり、どんな会社や学校も、その財の集まりで構成されているのです。物としての財を得るために「人材育成」をしていては組織の発展はないのですね。

                      学校長  川合 一紀
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